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   生活環境と色彩のマナー   

小池 岩太郎(東京芸術大学名誉教授:インダストリアルデザイナー)
1989年11月18日

 例えば東京で言えば新宿の東口駅前界隈から、新宿3丁目にかけて、あるいは渋谷駅前道玄坂辺りにかけて、又、池袋なら西、東口いずれでもそうですが、あるいは高田馬場駅の周辺、もうとにかく色の氾濫で、私など気の弱いものは全く毎日肝を潰して電車に乗っているという状態で、これを私たちはまぁ余りにも騒がしい色の環境だと思っています。先程、音による騒音ということがございましたが、まさに騒色とでも言うべき状態だと思っています。もっと快適な色使いがあるんじゃないか。私たち決して広告や看板類を否定するわけじゃありませんが、そのあり様がもう少し秩序のある気持ちのよい状態で出て来ないものかと思ってるわけです。ところがこういう状況に対しまして、一部の旅行者とか特に外人さんなんかの声で「非常にバイタリティがあっていい」とか、あるいは田舎から来た若い青年たちが「このごちゃごちゃぶりが何とも言えない」とか、又なかには「混乱こそ現代の美学だ」なんていう論も飛び出したりしている事実もあります。そこで私考えますに、そういう生活環境を見るのにも旅行者の眼っていうのとそれからそこに住み慣れている人、あるいはそこを通過するその街の人々の眼があるんじゃないかと、これはおのずと違った立場をとる事も有り得ると、まぁ旅行者の眼というのは兎角もの珍しさを喜ぶもんですがね。そこまで言っていいのかどうか知りませんが・・・。


 この広島市も色々な電車が走っているそうですが、私たち旅行者にとっては面白いなぁなんて思いますが皆さんはどうでしょうか。そこで例えばですね、私たちも20年あるいはもっと前かな、30年ぐらいまでは少し変わった風景、変わった情景にもひたりたいと思って田舎へ旅行しますよね。そうすると、相当山奥まで来たつもりでもちゃんとテレビがあったり電気洗濯機があったりそこのおばさんたちは相当なおばあさんまで一人残らずパーマネントをかけているという状態で、行ってきた連中は「ちっとも面白くないよ、元々の古い街並みや古い風土、例えば裸足で出歩いていてくれていたらもっと面白かった」みたいな口調があるわけですね。最近はさすがにそんなことは言わなくなりましたね。やはり文化は普遍的にその恩恵に浴するものだというのが年を経て分かってくるわけですが、そんなふうに旅人の眼っていうのは独自なものを持っている。一方土地の人はどうだろうというと意外や無関心なんですね。

 昨日、実は広島の新幹線側の駅を降りましたらほとんどけばけばしい看板類がなくって「こんなすっきりした駅ははじめて見た」と言ってびっくりして半ば賛嘆の思いで非常に感じ入った声を出したんですが、「いや、これはこれからだ」ということでこれから先どうなっていくのか心配です。この町でも今朝ほどタクシーでご案内頂いたんですが、なかにはこれはどうかなと思われる箇所もないではない。ところが土地の人は意外や気が付いてなくって、それはもうそんなもんだと思ってらっしゃる様です。で、言うと「あーそう言われればそうですね」と言って気が付かれる。私はそういうことにまず気付いて頂くということが第一じゃないかということを後ほど申し上げたいと思ってるんです。当のその広告なり看板なりを出しているオーナーというんでしょうか、当事者はどうみてるかと思いますと案外自分の会社のだけしか見てないですね。他には目に入っていない。「何だ、うちのはちっとも目にはいらんじゃないか。もっと赤色濃くしろ」とか「もっと背を高くしろ」とか、そして全体を見てないからそれでいいと思ってらっしゃる。改めて全体を見たらなんて騒々しいんだろうと、あれだけの大会社や大企業がお出しになるんだから当然気付くはずと思うんですけども、それがない。


 丁度小学校や幼稚園の運動会に行きますとお母さんたちは自分の子ばっかりを見てますよね。運動会はどうなってるかあんまり見てない。「あーうちの子はあそこにいる、ここにいる」その他自分があっちこっち行ってて、殆ど運動会の全体は当然、その子供の周辺の事もあんまり目に入らないんで自分の子だけ追っかけ回しているのと非常に似ていますよね。先程もここで話してたんですが、確か「鹿を追って山を見ず」という格言があったような気がします。猟師が山で鹿を追ってるが山は殆ど見てないと。そういう社会的な一つの視野、広い視野を持つ事に非常に怠惰なんじゃないかって思う事があります。だけども定住者、そこに住んでいる人達のそういう無関心さのなかで、一方でその色だけが独り歩きしましてどんどんどんどん人を脅かすような色の群れが氾濫する、そしてそれがどんどんボリュームを上げてくるということは知らず知らずのうちにその街の方々のセンスが落ちていって、人格的にも、なんて言いますかね、品性が下がるということも想像できる事だと思うんですね。こういうことは色彩心理やなんかの方でいろんな研究もおありなんでしょうが、私たちの生活の体験者としてつくづくそういうことを思います。


 先程は東京の例で申し上げましたが、そういう事情は日本の全主要都市の殆どに見られる状態じゃないかと思うんです。仮に高田馬場なんか行きますとホームから見る情景もひどいものがありますし、降りていった街並みもこりゃひどい色の氾濫だと思ってます。近くに早稲田大学なんかもあるわけで、若い学生がこういう環境で育ったのでは怖い気がします。できれば静かないい環境で勉学に励んでほしいという事はつくづく感じることでございます。

 そこでまずその周囲の環境のあり方に気付くということですね。これは実は私の若くして亡くなった姪が書き残したなかにあった文章ですが、「色があり、響きがあり、動きがあり、形があり、香りがあり、味があり、心があり、素晴らしい世界。でもそれらに気付き感動することが無ければはじめから無いのに等しい。うんとうんと気付きたい。そしてすべてを大切にしたい」と。恐らく病床から窓の外を眺めながら書いたものだと思いますが、これと反対のことで、そういう汚染された色の群れ、そういう生活環境に気付かなきゃ無いに等しいというか、わからないわけですよね。だからまずそういうことに気付いてほしい。先程、川崎委員長は色の非常に文化レベルの高い快適な状況を提出したいために今日集まったんだという話しがございましたが、それも気付かなければできていかないことですよね。まず今日、皆さんここから帰ったら車に気を付けながら周りを見て「なるほどここはいい街並みだ、ここはちょっとうるさげだ」とか気付いて頂きたいと思います。気付いたら今度はそれを自分のものだと思う事ですね。恐らく気付きながらも「あぁこういうものだろう」ろか、あるいは「どこどこ会社のものだ」とか、あるいは「どこの塀だ」とか、そういうふうになんか公共の色彩を人ごとのものだとご覧になるんじゃないかと思うんですが、みんな自分のものなんですよね、そこに見えてあるんですから。その会社のものじゃないんです。会社はもう離れていると言っていいと思うんです。


 私、かねて芸大に在職中、学生に「公共」というテーマで自分で問題を選んでデザインしなさいっていう課題を出しましたところが、一人の学生が住宅の塀をやるっていうんですね、外回りの塀を。「一個人住宅の塀が何故公共なのか」と聞いたら「内側は、その人の庭で、その人のうちのものかもしれない。だからそこには例え醜い色を塗ろうがどうしようがその人の好みだけれど、外側はもう公のものだ。したがって、只自分の好みだけでは済まされない。公共の良心のなかで扱うべきだ」と言うんで大変それに感心しましてね。もちろん「公共」というテーマで個人の塀をやることに大賛成で、いい塀が出来たことが記憶にあります。そういうふうに公共の色彩っていうのはもう自分のもので、例えばそれを施工した人も外はもう市民の皆さんに明け渡したものだというお考えがほしいですね。そういう考えがあれば好き勝手なことはできないだろうと思います。


 それからよくにぎやかにするってことはうるさくすることだと思って勘違いをしている場合がありますね。クリスマスの飾りやお正月の飾りを見に行きますとやたらといっぱい飾っちゃってうるさくしている。私もこれでデザイナーですから入って行ってそういうのを殆ど取ったんですね。そうすると非常ににぎやかさがかえって引き立ってくる。それまでやたらつるしてただうるさいだけで、そのうるささも雑然たるうるささで意味を何にも表現してなわけですよね。
 私は目白通りに住んでいますが、ある時写真屋へ行きましたらその地区の写真屋さんが来て話してのは「目白通りはまるで死んだような街だ。もっとにぎやかにしなきゃいけない」と。「にぎやかにするのには看板をこうしてああして」と言っていわゆるうるさくすることを一所懸命話していましたが、それは大変な勘違いなんですよね。例えば鐘、太鼓、笛などやたらにがちゃがちゃ勝手に鳴らしたんじゃこりゃうるさいだけでしょうね。しかしこれも調子をとって叩けば、ある種のにぎやかな調子を演出するわけで、これを間違えると大変だと思うんです。

 昨日、えびす講ですか、提燈つるして、いわゆるにぎやかになっていましたが、あの場合提燈の色といいのぼりの色といい非常に一つの調子でずっと統一されていますから、なんかこう沸き立ってくるようなにぎやかさを感じますね。あれがいろんな色でがちゃがちゃやられたらもう全然あのにぎやかさじゃなくって、うるさい結果になるだろうと思うんです。現在、ですからまちまちのうるさい色の群れだというところは要するに鐘、太鼓、笛、あるいはピアノを鳴らしたりバイオリンを弾いてみたり、そういうものが雑然と気侭にあるからうるさいんで、これを何とか調子をとり、全体で話し合っていけるっていうか、まぁそこでマナーという問題が出てくると思うんですね。


 そこで私のマナーって事をちょっと考えてみたんですが、我々円滑に社会生活を営んで行くためにはマナーが必要ですね。ところが我々のマナーをよく考えてみますとね、上司、上役に対するマナーなんですね。上司をもちろん尊ぶ、敬う意味もありましょうが、なかにはへつらう、おべっかする。そういう上司に対するマナーはあるけれども、お互い同志のマナーていうのはあんまり養われていないような気がするんですね。要するに仲間うちマナーというか、非常に狭いですね。よくこういう状況に接することございませんか。電車が来る、我先に飛び込んで場所を取って自分の身内や友人間だけで、「そこに掛けろ、ここだ」と他の人には全然構わない。我々の日常マナーっていうのもどうもその上役に対する封建的なマナー、あるいは仲間うちの何かお互いの、よく言えば思いやりなんですが、そのかわり他の人はけんもほろろに突き放してしまうような。したがってそうだとすれば自由で平等な立場における広い社会意識のなかのマナーはまだまだ私たちの社会では熟してないんじゃないかという気がするんですね。それが色の世界にも出るんじゃないかと思います。だからあのような広告や看板を上げている人は、むしろあそこに上げることによって、なんて言いますか言葉は悪いけど、むしろユーザーを見下したような感じにも取れてくるんですよね。


 こういう考え方があります。先だって文化庁でですね、なにか経費が上がるとか上がらんとかいうことで、そのいわゆるなんて言いますかね、日常生活や何かにつけても文化的なことにもひとつ予算でも来るのかっていうんで、実は私、芸大関係の小さな財団の理事長をしてますが、予算のために事務長に文部省へ行ってもらったことがあります。ところが文部省で考える文化っていうのは違うんですね。我々の実生活とは無関係で、文化って言うと博物館か美術館かあるいはガラスのケースのなかか桐箱のなかのもの、あるいは古い能とか、お茶とか、獅子舞とか、歌舞伎とか何とかで、今日現在の日常生活上の問題は含まれていないようです。例えば、皆さん外国からお友達なんかみえて日本の文化が見たいと言うと「あーそれでは美術館に行って下さい」と。でも「博物館に行ってください」じゃなくって文化は今ここになきゃいけないんですよね、その街並みに、そのウィンドーのなかに。しかしそういうところには文化の光はさしては来ない。自分たちで獲得するしかしょうがない。だいたい行政の面でそういうふうに文化っていうものはひとつ棚上げされた所で扱われてるし、その一面というものは顧みられてないという事も大変情けないことだと思うんです。まぁ先程来申し上げている、あの只騒がしいだけの色使いなんてのは当然大きな文化の問題なんで、そこらがもう少し公に文化として語れる様になれば一層進歩が早いんじゃないかと思います。

 2、3日前こちらへ来るときに、東北から、それから北陸から来た若い人に、「東京に来て何に驚いた?」って聞いてみると、あの山手線のあれだけ混雑しているホームでもちゃんと並んで電車乗るのを待っている、それにはびっくりしたって言うんですよ。尚、見事なのはね、私は今もそうだと思いますが、東京駅から八王子のほうへかけて急行電車が出ますが、まぁラッシュアワーになると帰りなんか特に丸の内界隈に通うサラリーマンの人達でしょう、きちっと並んで待ってるんですね。それで電車が着いて降りる人が降りる。そして中をちょっと掃除するんでしょうか、その間ドアは開きっぱなしなんですが誰も駆け込んで入らない。それで次の瞬間なかに急に閉まってさっと開くんですかな、そのときにみんな整然と入っていくんですね。これらやっぱり日頃の若い経験のなかからその通勤者や東京の人達が編み出した知恵だと思うんですね。もちろんその駅で「並んで下さい」とか何とかという声はあったでしょうけども。それが今やみんなそういう利用者の知恵になっております。この街の色の氾濫や騒がしさもやがてそういう知恵が働いて、自ら浄化作用が働いてよくなるんじゃないかということを来たいしております。その一環としてこういうシンポジウムが開かれ、こうして大勢の方がお集まりになるってことは、そういうことへ一歩も二歩も近づいていく希望だと思って、私の基調講演を終わります。ありがとうございました。(拍手)

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