美はパブリック(公共、公益)にあり
金田 晉(広島大学名誉教授:美学者)
2011年3月21日
本稿は、2010年7月8日、広島パブリックカラー研究会(会長:山本一隆中国新聞副社長)の設立20周年記念大会(於NTTクレドホール・ラウンジ)で行った記念講演に、大幅の修正を加えて作成されました。
デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」は、近代哲学だけの格率ではないでしょう。画家も彫刻家も、なべて芸術家は孤独なエゴの表白を第一とし、それを芸術の純粋性としてきたように思われます。その時代、共同体の意識が桎梏のように自由な精神の飛翔を抑えるほどになお生きていたがゆえに、アンチテーゼのように自我を前面につきだす提言は、強く人の心をつかんだのでありましょう。
この二三十年前から、イマヌエル・カントの公共性の思想が読み直されています。美意識を例に引いてみましょう。かれはこれを、個人の欲望充足に帰される快感と峻別する。後者は「私事の(プライヴェートな)判断」にすぎない。対照的に「美についての趣味判断は・・・・・、だが皆に妥当するgemeingueltig、パブリック(公共的)な判断である」(カント『判断力批判』第8節)。「カナリア諸島産のシャンパンがおいしい」かどうか、それはプライヴェートな判断で、正確には「私ニトッテ」と限定して語られるべきです。だが美的趣味判断はちがいます。「私の見ている建物、かれが身につけている衣服、私の聴いている協奏曲、あるいは評価を受けるために提出した詩」などについて、「私ニトッテ美しい」なぞと言ってはならないと言われます。
美学の誕生した18世紀後半以来、西欧近代美学の前衛たちは美が主観的普遍性の判断であることを説きつづけてきました。「主観的普遍性」とは一見背理的規定であります。主観的であるということは「私の」という個別的主観性をまず思い浮かべるでしょう。一方普遍性は、すべてのひとに妥当することだから、むしろ客観的と言い換えられてよしとされる性質であります。だが、このような一見相反するような主観性と普遍性が結合するところに、「美しい」と判断される領野が開かれている、と言うのです。18世紀末、その世紀の哲学思潮を集約し次世紀につないだ哲学者イマヌエル・カントは、美を、同じく個人に喜びをあたえる感情でありながら、個人的(プライベート)な快感から区別して、「すべての人」の同意を求めるパブリックなものであると説きつづけました。
今日、その主観的普遍性としての美のあり方が危機に陥っています。一方で、他者を慮らない自分勝手な思い込みが美と混同される風潮があります。他方でパブリック(公共、公益)のほうも営利を目的とした社会風潮の中で危機にさらされています。その危機は交通、通信、教育、生活等、すべてのところで蔓延しています。
21世紀のとば口に立つ今、世界史の地図が大きく塗り変わろうとしています。美の、特にそのパブリック性を軸に美のあり方を考えてみたい。
1.公共の色彩を考える広島シンポジウム「街の色、人のいろ」をふりかえって
3.都市つくりの基層としての「パブリック・カラー」という考え方
1.公共の色彩を考える広島シンポジウム「街の色、人のいろ」をふりかえって
1989年11月18日(土)、中国電力の本社ビルで「公共の色彩を考える会」の生みの親小池岩太郎東京芸術大学名誉教授の基調講演「生活環境と色彩のマナー」を受けて、シンポジウム「街の色、人のいろ」を開催しました。パネリストは、香川不苦三(広告美学、当時広島修道大学学長)、花輪恒(都市デザイナー)、浜本一絵(皮革工芸作家)、福田繁男(グラフィック・デザイナー)で、筆者がコーディネーターを務めました。
今振り返ると、この1989年という年は、現代史において忘れられない年でありました。私たちのシンポジウムがおこなわれた8日前の11月10日、ベルリンの壁が崩壊しました。第2次世界大戦後の東西冷戦の象徴であったベルリンの壁に市民たちが駆け上り、それをハンマーで壊しはじめた日です。日本では最近、2001年9月11日の、ニューヨークの世界貿易センタービルへの飛行機テロを、時代を変える転換の日と言うひとがいますが、私はこれはまちがいだと思っています。この事件で、ブッシュ大統領はテロ撲滅、アラブ敵視の政策を打ち出し、アフガニスタン、イラクへの救いのない戦争にはまりこんでゆきました。だがベルリンの壁の崩壊は、50年つづいた冷戦体制の終焉を意味し、新しい世界平和と自由の道筋を示した事件でありました。私たちは1989年という年を、新しい始まりの年として、ずっと記憶しておきたいと思います。
その1989年に、広島で先に述べたシンポジウム「街の色、人のいろ」が開かれました。この年は、通産省が「デザイン・イアー」と指定した年で、このシンポジウムもその参加事業として企画されました。名古屋では世界デザイン博覧会が開催され、広島でも「海と島の博覧会」が開催されました。9月には第3回広島文化デザイン会議が開催され、デザインがテーマとなるシンポジウムが開催されました。1989年という年は、日本だけでなく、広島におけるデザイン元年と言える年でありました。
2.色彩の公共性、「地域の色」を大切にすること
そのときの報告書を引っ張り出してみました。シンポジウムの主催者代表は山本一隆(現中国新聞副社長)であり、実質的な代表者として山田晃三(現GKデザイン総研広島社長)、大橋啓一(現広島芸術専門学校長)の名が出ています。このシンポジウムを契機に「パブリック・カラー研究会」が設立されました。色は個人的、プライヴェートな好みで決められるので、他人が口を挟むべきでないというのが、それまでの通念でありました。そこに「公共」という考えを持ちこんだ画期的な問題提起でありました。
建築の歴史においても色彩が主題化されることは長くありませんでした。近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスは、建築を総合芸術と考え、総合芸術学校バウハウスを創立し、クレーやカンディンスキーなどを講師に迎え、諸芸術の統合を図りました。その著書『国際建築』(1925年)において、かれは「かたちは機能に従う」というテーゼによって建築の新しい道筋を示しました。だがそこで色彩が論じられることはありませんでした。当時、建築や都市のデザインを本格的に考えようという機運がもりあがっていあがっていましたが、モノクロのかたちのほうに関心が集まり、色彩は二の次とされてきました。それから60年以上経って、ようやく色彩がクローズアップされるようになりました。だが色彩はそのときでも主観的で、個人の好みに左右されるものと考えられていました。
上記のシンポジウムには当時通産省工業技術院製品科学研究所の主任研究官を勤めておられ、のちに東北芸術工科大学教授になられた日原もと子さんも参加されました。彼女は前年スイスで開催された国際色彩学会大会に出席され、そのときの大会の模様を報告されました。その年、学会は環境色彩をはじめてテーマとしてとりあげました。これはデザイン学の歴史に一つのエポックをつくることになりました。学会参加者に共通の認識は、色彩をヒューマンエコロジカルな立場からデザインすること、「地域の色」を環境色彩として注目するべきだということでした。実際、それぞれの国には「地域の色」があります。それは何千年もの時間をかけて熟成させながら、その都市の最新の建築様式の中にも溶け込ませてゆくべきものです。その地に産出される素材を使用するというのも、建築や都市建設において「地域の色」を演出する手法であると、紹介されました。
ベルリンの壁が崩壊する前夜、ヨーロッパでは、色彩の研究者たちが東西冷戦、自由主義対社会主義というイデオロギー対決を超えて、「地域の色」に象徴されるヒューマンエコロジーを共通言語として世界の将来を語りはじめていたことは、教訓的であります。このことは、新しいデザインの出発点を示していました。
3.都市つくりの基層としての「パブリック・カラー」という考え方
小池岩太郎教授の「公共の色彩」という思想は、美学を生業にしている私には、きわめて斬新で、時代を一歩先駈けていると思われました。私はよろこんで上記シンポジウムのコーディネーターを引き受けたのであります。「公共の色彩」という考え方には、先に述べたイデオロギーの対立を超えた主張があると同時に、色彩を個人的好みの枠から解き放つ可能性があると思いました。
小池教授の設立した「公共の色彩を考える会」という会の由来から話されはじめました。
1979年美濃部都政から鈴木都政にかわりました。当時都政に関しては、保守対革新の対立の余韻があり、鈴木都政になると、革新都政憎さのあまりすぐに都営バスの色まで変えてしまう、ということが起こった時代です。鈴木都政は美濃部色を消すためにいろいろなことをしましたが、都バスのボディの色を塗り替えることもいたしました。ブルーと白の都バスが黄色と赤に塗り替えられたのです。だがそれがあまりに醜悪であったために、小池教授はこの会をつくって、都に異議申し立てを行いました。色彩を政争の道具にしてしまう風潮の中で、色彩を公共という人間生活の基層のところから見直そうとする、じつに新鮮な問題提起を行った会でした。
この「公共の色彩を考える会」は、東京都からはじまり、各地に支部ができ、それぞれの地の公共の建物、通り、橋、交通機関の色彩の検証にとりかかりました。なかでも広島の活動は他県から羨ましがられるほど活発で、会員は街の中のいろいろな気になる光景を写真に撮ってきては、スクリーンに映して、その批評をおこなっていました。名称も「公色会」の支部的役割も果たしながら、「パブリックカラー研究会」という独自の名称にかえ、「PC研」と略称しながら、独自活動をしていました。その場合、「パブリックカラー」の「パブリック」な施設とは、街路や建物や橋や交通機関といった公営の施設だけでなく、私営の店舗や住宅等であっても、道路に面していたり、いろいろな人の出入りする建物や空間をも含めて考え、そのカラーを考えようとするものでした。公共性の高い建物や交通機関は、それが公立であれ民間であれ、設備の機能がよければよいというのではなく、所有者だけでなく、またその利用者だけでなく、それを風景として取り込んで通り過ぎてゆく通行者にも好ましいカラーを使用するべきだと考えたのです。たとえば都バスのような公共交通機関に、美濃部革新都政憎しという私怨だけで色が決められたらたまったものではありません。広島でもその少し前に、百メートル道路に面したビルに青が使われて物議を醸したことがありました。お金を出した者が色を決めるのが当然という考え方はやはりおかしい。百メートル道路もその両側に立つビルも、たとえそれが私有のものであっても公共的性格をもっており、むしろ公共的空間の形成に参加しているというスタンスが必要なのでしょう。そのうえ、PC研は、たんに既存の諸施設を批判するだけでなく、実際にカラー相談をおこなうこともあったようですが、特筆するべきは、今日広島の市内を走るモノレール、アストラムラインのカラーの決定にPC研での議論が大きく貢献したということです。
もちろん反省もありますPC研は、個々の建造物、交通機関の車両などを検討の対象に選ぶことが多かったのですが、だが、「地方の色」、「地域の色」といった広いエリアの基調をなすカラーについて、しっかりした議論を行ったかというと、まだまだ不十分だったと思います。たとえば広島市域についての共通カラーなどを考えようとすれば、抽象的な議論はできますが、具体的にはなかなかアプローチの仕方がわかりません。前述した日原とも子さんが参加された国際色彩学会でとりあげられた、ヒューマンエコロジーに基づく「環境色彩」について、PC研は濃密に議論したとは言えません。
だがそこにこそパブリックな観点が必要だということに異論を唱える人は少ないでしょう。それでもそれをきちんと議論してゆく、そのような習慣を私たちは身につけているとは到底言えません。たとえば、同じ広島市内でも、私たちは、地区によって住んでいる人の空気のちがいを感じることがよくあります。それを抽象的な「カラー」でなく、具体的なカラーでイメージしてみることもできるのではないでしょうか。
私が住んでいる東広島市の西条駅のすぐ近くの一角に「酒蔵通り」とよばれる一地区があります。私は今から10年以上前に、当時の讃岐照夫市長の提案で酒蔵通り活性化委員会を立ち上げ、活性化構想を答申いたしましたが、その酒蔵通りに通底する色彩を探すことからはじめたことを記憶しています。一方で、一町歩ばかりの田んぼが埋め立てられ、ヨーロッパスタイルというかスペインスタイルというか、淡いレンガ色の個人住宅とアパートが建てられている地区があります。田んぼの中にある比較的独立性の高い一角の団地だし、人の往来もそれほど頻繁ではないところなので、建築会社と居住者の間で好みが一致すれば、外側からあれこれ批評をして、折角住んでいる人の気分を害するようなことはしたくありません。かつて4町を合併して東広島市の都市構想が描かれたころ、賀茂台地は赤瓦とアカマツの緑がよく似合うと言われていました。それはパブリック・カラーの領域です。先のスペイン風のカラーは、こうした地域のカラーとどうつながってゆくのでしょうか。だが神戸や長崎のように、伝統的な風景から隔絶して人工的につくられた都市があり、それが年輪を重ねて、海外の風とアマルガムした新しい独自の風景を作ってゆくこともあります。おそらく、原野を開墾して田畑をつくり、居住のための家並みをつくり、街をつくり、城や商店街を作ってゆくたびに、その異質の要素が既成の風景をすっかり変えていったはずです。そうした都市の形成過程に、パブリックカラーという考え方をもちこむことができないでしょうか。
4.公共性の美意識あるいは美意識の公共性
私もまた美学を志して以来、美は俗塵を払って超然と輝く虹霓(こうげい=カゲロウ)のようなもの、主観を突き抜けて至高の境地にあるものと思い、大学の講義でもそのように説いてきました。だが10年以上前から、 美意識のもつ公共的、パブリックな性格に気になり出していました。広島県の竹下虎之助、藤田雄山の両知事のもとで広島県の文化芸術ビジョンの起草に関与し、広島県立美術館協議会や、その発展としての広島県博物館協議会のまとめ役となり、また東広島市をはじめ広島県内のいろいろな美術館の運営に関わってきたこともあります。協議会等の大きな議題は、当の美術館を質的にどのように向上させるか(作品収集や企画展など)という問題の他に、いかに入館者を増加させ、県民あるいは市民の身近なものにしてゆくかという切実な問題がありました。その議論を座長、議長としてすすめながら、公立美術館とは何か、何を目指さなければならないかということを深く考えざるをえませんでした。私立美術館は、個人のコレクションを所有者が独り占めにするのではなく、多くの美術に関心のある愛好者に見てもらうことにつきると思います。だが公立美術館はそれと同じでよいのだろうか。「公立である」ということがいつもひっかかっていました。
公立美術館は、昭和40年代ごろから全国で建設されはじめ、とくに50年代になると、経済の高度成長下にあって、市町レベルでも盛んに建設されるようになりました。これはすぐれて日本的な現象だといってよいでしょう。わが県、わが市に美術館を作ってほしいという要望は、地元で絵を描いたり、焼き物を制作したり、書を書いたりしている作家たち、自分たちの作品を展示する場がほしいという要望から発しています。もちろんふだんは見ることのできない世界のすぐれた芸術作品に触れたいという要望もありました。戦後、エコノミック・アニマルとよばれながら、経済発展にすべてを賭けてきた日本人が大阪万国博覧会を経て、個人の心のゆとりの場として芸術や文化の雰囲気をもとめたことは、きわめて自然でありました。生活に余裕が出てきた、少し贅沢をしたいという個人の願望は、まことに自然でありました。建物(容れ物)の建設費、維持管理費から作品購入(内容)の費用まで、すべてが県市の予算でまかなわれてきました。収入は、基本的に入館料、それから特別企画展のための寄付というところでしょう。例外的に大入りの企画展を除けば、入館料で黒字になるなぞと考える人はいないでしょう。ただたとえ赤字であっても、美術館という存在が必要であるという説得力はなかなか見つけられません。
公立美術館へのこれまでの要望は、「個人的private」理由が主でありました。自分の描いた絵を美術館に展示してほしい、自分の会派の展覧会場を借りたい、すぐれた展覧会を見て、自分の教養を高めたい、と、個人あるいは団体の枠を越えない要望が主流でした。privateな満足にとどまっていて、publicな領分に踏み出るものでなかった。そのようなprivateな要望を公立美術館にもってはいけないとは思いません。実際、私自身も同じ理由で、美術館をずいぶん利用させてもらってきて、そんなことを言えた義理ではありません。だが、公立美術館は、もっとpublicなレベルでの存在意義があってよいのではないでしょうか。
5.「神なき時代の哲学」、美学、味覚、触覚を拠り所とする
近代の美学aestheticaは18世紀におこる。18世紀はヨーロッパ世界の社会構造の大変革期でありました。イギリス、少し遅れてベルギーやフランスで、産業革命がおこり、あわせて市民革命がおこります。多くを語ることはできませんが、近代国家の成立は長くつづいていたキリスト教的共同体を崩していきました。産業革命によって工場制機械工業が生まれ、新たな生産システムの時代になります。その時期まで、労働は基本的に「手の労働」であり、熟練労働という質において評価されていました。質が問題となるかぎりにおいて、手工業の技術は芸術と連続していました。だが蒸気エネルギーによる機械生産がはじまると、安価で均質の大量生産が基本となり、労働者の労働は単純労働となり、労働時間という量ではかられるようになります。芸術もまた労働の所産であるのですから、何時間働いたかで賃金をもらえる工場労働とは別の、出来栄えという質で勝負するもう一つの「芸術労働」が出現することになります。Aestheticaの生まれる時代に、「芸術」が誕生したとも言えるのである。
ドイツでは産業革命と市民革命で英仏に後れをとったのですが、プロイセンという国民国家を成立させました。そこでは文字や論理的思考になれていないふつうの人間でもが持ち合わせている感性的認識(眼、耳、舌、鼻、手をつかっての認識)を善導するための学問として、美学(=感性論aesthetica)の成立の基盤をつくりました。
美学aestheticaという学問の命名者はバウムガルテン(”Aesthetica”第1巻、1750)ですが、かれをも巻き込んだライプニッツにはじまる啓蒙主義哲学運動が、この学問を世に送り出したのです。学校にも行けず、文字も知らずに世に出る人間が、自分の目や耳や手をつかい、ほぼ間違いのなく、何が正しく何が正しくないか、何が真で何が偽りであるかを知ってゆく、その感性的認識を正しい方向へ導いてゆく論理学として、美学が成立したのです。その18世紀末、イマヌエル・カントがその啓蒙主義哲学を集大成したのです。
カントは「神なき時代の最初の哲学者」と言われます。世界を認識し、正しく生きてゆく、そのために神への信仰にすがる時代ではなくなっていました。既に1世紀以上前、デカルトは「自我ego」を原点とする哲学を構想していました。18世紀の哲学者たちは、いちばん原始的で、自分には確実な、舌で感じ分ける味覚、手で確かめる触覚をもっとも確実な拠り所としようとしました。美を弁別する器官能力としての趣味(taste=味覚)がいちばんの拠り所として登場する意義はそこにあるのでしょう。
6.カントの美意識の公共性
趣味を表す英語はtasteで、これはもと味覚を意味し、同じインドゲルマン語系のドイツ語Tasten(触れる)につながっています。ドイツ語はGeschmackですが、これも味わうを意味するSchmeckenに由来します。つまり趣味とはコトバを媒介とせず、直接物に触れて感じ取る能力であり、もっとも手ごたえのある、もっとも確実なもの、しかも微細を感じ分ける繊細な能力であります。カントはこの能力によって、接触部分の個別から世界の普遍を覗き見る道を指し示そうとしました。それは象徴的思考の道を用意するものでした。
だが、趣味には、他者との共同、連帯の道を困難にするところがあります。「十人十色」とも「あばたもえくぼ」とも「蓼食う虫も好き好き」とも「de gustibus non est disputandum (趣味については議論できない)」とも言われます。
カントは趣味判断の第1契機を次のように説明します。「趣味とは、眼前にある対象あるいは頭の中に思い浮かんだ表象を、好き嫌いという感情で、その利害を一切顧慮せずに判定する能力である。このようにして好きになる対象は美しいと言われる。」対象に拠り所を求めたりしない、利害損得で計るのでもない、好き嫌いという感情だけを物差しにして対象あるいは表象を測ろうとする、それをいともやすやすとやりおおせてしまう、根なし草の冒険であります。しかしこれだけでは、孤独な判断です。隣にいる友との連帯の必要は出てきません。
趣味判断の第2の契機は、それを補います。「概念なくして、すべての人に気に入られるものが美しい。」「概念なくして」とは、ことばを使わずに、また論証したりせずに、という意味です。ここで大切なことは、「すべての人に」と訳したのは、「普遍的に」とも訳されるallgemeinです。美もまた主観的である以上、その都度一回的で、各私的jemeinigであります。カントは、個人の欲望充足に帰される快感と区別して、それを「私事の(プライヴェートな)判断」とし、それとは対照的に「美についての趣味判断は・・・・・、だが皆に妥当するgemeingueltig、パブリック(公共的)な判断である」(カント『判断力批判』第8節)というのです。
私は、長くこの趣味判断の第2の契機を読み過ごしてきました。しかし、この趣味判断、美意識の公共性という指摘の重要性を理解するようになりました。カントはこのことをいろいろ、言い方を変えながら、論じています。おそらくカントの生きた18世紀末の時代にも、まったく個人的な快感と美とをごっちゃにしてしまう状況があったのでしょう。
18世紀はヨーロッパの危機の時代でありました。従来のキリスト教的人生観というか価値観が崩れて経済至上主義が横行し、「私private」の論理が声高になる時代だったのでしょう。それに対して当時起こった啓蒙主義哲学は公共性の重要性を説きました。カントは「啓蒙とは何か」という1784年論文で、「啓蒙とは人間が自らに責めのある未成年状態から脱出することである。未成年状態とは他人に手取り足とりしてもらわなければ、自分で考えたり判断することができない状態のことである。」啓蒙のスローガンは「自分自身の頭をつかって考える勇気をもて」でありました。かれらがいくども手を替え品を替えその大切さを説こうとした公共性 Oeffentlichkeitとは、字義通りに解すれば「開かれていること、自由であること」であり、他者に向かって自己を開くということでありました。「公共性という語と概念は啓蒙主義の産物である。」(『哲学歴史事典』)同辞典によれば、この「公共」という考えは、旧くローマ時代にはじまっていて、そこで形成されたローマ法ではres publicusをres privatusに対比させ、前者を法の前提にすえようとしていました。また形容詞oeffentlichは、16世紀以来つかわれはじめますが、当初はただの普通の「開かれた」という意味であり、それがpublicusの意味(独訳gemein)になってくるのは18世紀後半であり、「公衆に遍く開放された」とか「国家的統制に屈しない」という近代的意味を賦与されるようになりました。啓蒙主義哲学がどれほどOeffent- lichkeit(公開性)に、強い思いを込めていたかが分かるような気がします。
この啓蒙主義の時代の、特にカントの公共性の概念が、20世紀後半哲学的に再度読み直され、特殊に今日的意味をもってふっかつしてくることになりました。ハーバーマス『公共性の構造転換』やハンナ・アーレント『人間の条件』1958(日本語訳ちくま学芸文庫、1994)はその代表的著作でありました。
7.公共性を学ぶ場所―公立美術館
現代は18世紀に似ているように思われます。たしかに18世紀には想像もできなかったような技術的革新がありました。交通機関が発達し、地球はほんとうに小さくなりました。IT機器の発達により、地球の裏側のニュースもほぼライブで届くようになりました。
それでいて家族がバラバラになり、孤独死が珍しくなくなり、都市が壊れ、限界集落が増大し、工場に労働者の連帯がなくなり、世代を越えた習俗、伝承が薄れつつあります。かつてハイデガーに独我論的な実存哲学を学んだ和辻哲郎は「人間の倫理学」を提唱しました。その際「人間」は今日のように「ニンゲン」と読まれるのでなく、本来の読みにもどって「人と人の間」を意味する「人間(ジンカン)」と読まれるべきとされました。今、その「人間(ジンカン)」の存立が危ぶまれています。これは、県とか市とか、そのような自治体組織の基盤を揺るがしかねない自治に直面しています。
私は、美術館は公共の美意識を学ぶ、訓練する、議論するところにするべきだと考えています。色彩感覚、造形感覚にすぐれた作家たちの作品に囲まれながら、それらに触発されながら、自分たちの住む街がどのようにあってほしいか、集まった仲間で話し合う場所になってほしいと願っています。美術それ自身を心行くまでたのしみたい者は、個人宅のコレクション、あるいは私立の美術館に通うとよいと思います。だが公立の美術館は、市民や県民の税金で運営されています。かれらはすべて美術愛好家であるとはかぎりません。いやむしろ大半は美術作品には無関心であると言ってかまいません。それでも美術館は、まさに公立美術館として、すべての人が集まる公共の場となるべきです。
公立美術館は美術愛好者だけのものであってはならないと思います。もしそれをつづけるならば、美術より老人福祉へという声に抗することはできないでしょう。しかし美術作品に囲まれたホールで、都バスの色は何色がよいか、百メートル道路に建てられるビルはどういう形状で、どういう色が似合っているか議論してゆくとすれば、どんなにすばらしいことでしょう。公立美術館は、都市建設のアゴラとなるべきでしょう。